与太話

twitter : https://twitter.com/yota_kk

真夜中

真夜中は静かでいい。

心を乱すものが少ない。

心の中の声がよく聴こえる。

自問自答、繰り返す。

 

真夜中は暗くていい。

暗闇が身体を包み込む。

微かな明かりに目を凝らす。

それは希望か?

 

真夜中は寒くていい。

布団の暖かさが身体に沁み入る。

僕を包み込む布団の柔らかさ。

僕は少しずつ眠くなる。

忘我

我を忘れる。その時だけが自由になれる。

苦しみから目をそらすことができる。

どうすれば我を忘れて何かに没頭できるのか。

僕の場合は、音楽を作っている時と、時々絵を描いている時。

我という存在から離れて、時間の感覚から離れて、「この身体」のみがここにある。

超主観の視点。そこに幸福があるのか。

忘我こそが幸福なのか。

無心で物作りをすることこそが苦しみからこの身を解放してくれる唯一の方法なのか。

曲を作り続けるしかないのか。

絵を描き続けるしかないのか。

それを死ぬまで続けるのか。

生活していけるのか。

「苦しみとの付き合い方 」。

 

星を見たい

星を見たい。

広い原っぱで。

河原の土手で。

星を見たい。

宇宙を想像できるから。

自分の小ささを知れるから。

何百年か昔の光がいまここに届いて、

いま発された光は何百年か後になってここに届く。

自分の命の短さよ。

命は誰にとっても短いものだろう。

何もわからないままに死んでゆくのだろう。

どこにも行けないままに死んでゆくのだろう。

足りない、満たされない、苦しい、と、もがきながら、もだえながら死んでゆくのだろう。

星は静かに光を放ち続ける。

 

時間

明日が今日に、今日が昨日に。
目には見えないけど常に変わらずにはいられない。
変化。時間の経過。
人は時間を知覚することはできないのではないか。ただ物質的な変化に気がつくことができるだけなのではないか。
時計の針の位置が変化したことしかわからない。太陽が東から昇り段々と西へ向かっていくことしかわからない。いつのまにか辺りが暗くなって夜が来たということしかわからない。
時間というものを理解しているわけではない。

 

小学3年生の頃、明日がどこからやってくるのかを考えて怖くなった。どの方角へ逃げようと明日は来る。どこへ逃げようと歳はとる。

もちろん動かなくても明日は来るし歳もとる。

リビングの時計の針の動きを見て言いようもない怖さを抱いたのを覚えている。

 

時間には逆らえない。変化には逆らえない。

どうやって時間をやり過ごすか?

どのように変化していくか?

 

怒りについて

怒りは叶わなかった理想に対する執着である。

 

期待が裏切られたとき、思い描いていた理想と実際に起きた現実とのあいだにギャップが生まれたとき、そこにフラストレーションが生じる。このフラストレーションが怒りの種である。

このとき、現実をあるがまま受け容れ、諦めることができれば怒りには発展しない。

つまり、叶わなかった理想に執着しなければ怒りは種の段階で摘み取られる。

怒りを抱かないためには、叶わなかった理想に執着しないこと、そもそも初めから理想を持たないことだ。

 

諦めるという言葉の原意は、「物事の真理を明らかにする」という意味の「明らむ」という言葉である。一般的に使われているgive upとは意味合いが異なる。

この、「ポジティブな諦め」は気持ちをラクに生きるために重要なことなのではないだろうか。

 

ちなみに言うと、罪悪感とは自らに向けた怒りのことである。

怒りは「自分よりも下」と見なしている相手に向かって流れていく。

自己肯定感が低く、自尊心の低い人は「自分が一番下」と思い込んでいる。よって、他者に怒りの矛先を向けるということができない。その結果、自分自身の中に怒りを溜め込む=自分自身に怒りを向けることしかできなくなる。これが罪悪感の正体である。

罪悪感も本質的には怒りの一種なので、罪悪感を抱かないためには、自分自身に対する理想に執着しないこと、自分自身に理想を抱かないことである。

視点

哲学者の両の目は、それぞれ顕微鏡と望遠鏡とでできている。

 

主観の視点と客観の視点。

幸福は主観の視点、真実は客観の視点でしか見ることができない。

物質的・時間的な客観。そこではすべての事象が無意味・無意義・無価値となる。

逆に、主観の視点で物事を見れば、何に対しても意味・意義・価値を与えることができる。

視点のシフト。

ピントの調節。